「真珠を隠すなら…」


喧噪は静寂へ、足音は波の音へ。
人間の影が消えた館内で境界の融合がはじまる。
その場に居ない方がいい、出来れば出あわない方がいい。
しかし「この場に人間が居る」ということにも意味がある。
…午後6時、ゆっくりとコチラ側に潮が満ち始めた。


館内には誰もいない。
『森滝』が館内を歩いていると、ゆるりとした感触が頬をなでた。
「ごきげんよう」すれ違いざまにヒンヤリとした声がする。
前を見て歩いていたのだから、すれ違いざまではない。
ロングドレス、ウエストを締め上げたバッスルスタイルの貴婦人である。
確かに古い血筋だが19世紀スタイルはいささか中途半端、だが彼女には似合っていると森滝は思った。
「ああ…どうもこんにちは」
先日の宿直の夜、彼女とご亭主の秘め事をかいま見た森滝は、どうも真正面から彼女の顔が見づらかった。
「今日も宿直ですの?」知ってか知らずか、彼女は意味深にふふっ…と笑った。
鋭い歯が真っ赤な口紅の奥で物欲しげに並んでいた。
(知ってるなこりゃ…)
「はぁ、まあ…」(僕は仕事なんだから)と心で大義名分を羅列し、上の空で言葉を返す。
「そう…じゃ、また夜にね」と、優雅に身をくゆらせ通路の端に消えていった。
シルクタフタの衣擦れの音。
だが森滝の足もとにをかすめたそれは、ザラリとした紙ヤスリのような感触がした。
ご愛敬だな…。

大潮の日はベテランの飼育員が宿直と決められている。
だが、それも善し悪しだと森滝は思っている。
なぜならベテランになればなるほど、出てこなくていいものまで安心して出てきてしまうからである。
(願わくばおとなしくしといてくれ!)
…などという願いも虚しく、数秒後には5〜6人の青年が森滝の横を急いで駆け抜けていった。
皆、一糸乱れず同じ方向を向いて。
いや、それは良いが、足並みもバッチリ揃っている。
…っというか、おまえらの足が見えてると変なんだ!
「あいつらガーデンイールのアイデンティティを完全に無視しとるな」
ため息をつきかけた刹那、「あら、こんばんは♪」と小さな声がした。
今度はいったい誰なんだ?と少々強面で振り向いた森滝の表情が瞬間にとろけていた。
「どうしの?夜泣きかい?」
(いいえ…)と女性は首を横に振る。
小さな赤ん坊を抱いた女性は、すっかり慣れた手つきでトントン…と赤ん坊の背中をたたき、いとおしげに我が子に頬ずりをした。
そんな母子の何気ない様子に、森滝は心の底から熱い感慨がこみ上げていた。
彼女はただ、森滝に見せにきてくれたのだと思う。
「もうすっかりお母さんだね、よかったね」
ニッコリと微笑んだ女性は脇には挟んでいた貝殻を取り出し、あやすように小さな声で子守歌を歌い始める。
海に雪が降るような、小さく静かな優歌声であった。
水族館の飼育員という仕事を選んで後悔したことは一度も無い。
でも、心からよかったと思える時があるとすれば、こんな時かもしれないと森滝は思った。
歌声が遠のく。
別に今まで夢を見ていたわけではないのに、人間はよく奇妙な言葉でこう言い表す。
ふと我に返る…と。
たった今まで母子が座っていたはずのベンチを見つめ、森滝がつぶやく。
「ありがとう」
その言葉は誰にむけられたものか…。
そして踵を返し、また誰もいない館内を歩きはじめた。

そろそろ警報ブザーが鳴らないことを祈りながら布団に潜り込む時間が近づく。
最後に森滝が向かったのは『人魚の海』である。
そこは以前「マーメイド・ホール」という呼び名であった。
こうして薄闇にぼんやりと浮かびあがった水槽をみると、得てしてそんな響きがふさわしいようにも思えた。
水量約200トン、水中宮殿さながらの場所で、人魚達は世界一高価な食事とって生きている。
なぜ彼らがここまで貴重な存在であり、たかだか海の草である『アマモ』が世界一高価なエサとなっているか…。
それはコチラ側が思い至らねばならぬことである。
コチラの存在しか見えぬものに、どこまで想い至れるかは別して…。
さて、薄闇のホールでは常夜灯が水の揺らめきを誘い、人魚達は密度の高い夢の中を静かにふわふわと漂っている。
今日も一日が終わったと安堵の息を吐きかかった刹那、森滝はじゅんいち水槽前に小さな影を見つけた。
(誰だろう・・・)
何度も言うようだが、大潮の日は『誰もいない館内でよく誰かに会う』のである。
側に行くと、気配がしたのか人影が振り返った。
ベリーショートの黒髪が似合う、可愛いを卒業した美しい大人の女性であった。
品の良いブルーの服、白い肌、薄ピンク色にひかれた濡れたルージュ。
どれをとっても非の打ち所のないいい女である。
ただ一つ残念なことがあるとするなら、その黒曜石のような瞳からは止めどもなく涙があふれていることだった。
彼女はそれをぬぐおうともせず、森滝に向かって小さく頭を下げた。
薄闇の片隅で泣いている女性に声をかけるのもどうかと思われたが、とりあえずココは水族館であり、森滝はそれが仕事だった。
「どうしたんですか?」問いかける。
「ごめんなさい、ちょっと懐かしくて…」と笑う。
また涙があふれる。

水族館は二つの世界の境界に位置している。
大潮の日は互いの境が希薄になるため、VIPな生き物のアクリルには最大限のセキュリティが施されている。
たとえココに来る事ができても、彼女はアクリルに手が触れられなかったのだ。
だが、ココまでこられるということは、ほんの暫くでもこの水族館で暮らしたからに他ならない。
森滝ははじめ、彼女が誰なのか気づかなかった。
それほど彼女が美しくなっていたからである。
『懐かしい』そう言って帰ってきた事実は、飼育を仕事としているものにとって実に媚薬な言葉である。
しかし、それだけでは無い訳があることも森滝にはわかっていた。
人それぞれ、どんな生き物にも意味はないが訳ならある。
喜んでばかりいるわけにもいかないのだ。
「じゅんいちに会いに来たの?」
彼女はハッと森滝を見上げた。
「これ以上側に行くことはできないけど、来られるときは、いつでも遊びに来ればいいよ」
取り繕う気も、変えようとする気もないまっすぐな言葉は、弱った心に優しく響く。
彼女はゆっくりとした仕草で一度うつむくと、今度はゆっくりと首をあげた。
「ありがとうございます。でも…もう今日で最後ですから」
何が…と、問いかけて森滝は言葉をのんだ。
その『何か』は彼女自身の問題で、いくら水族館の人間であろうと、それはあずかり知らぬ部類の出来事である。
「そう、今日は気が済むまでココにいればいいから。君にはずいぶん世話になったけど、何もしてあげられなくてゴメン」
彼女が首を横に振り、 また涙がポタポタと落ちた。
「いいえ、ココにいたときは幸せでした。じゅんいちさんと居られただけで…それだけでよかったですから」
訳ならあるだろう、思いならどうしようもないほどあるだろう、だがそれは全て彼女個人のもの。
どんな感触で、どんな重さがあるのか誰にもわからない。
ずっとじゅんいちプールの前で立ったままの彼女に、セレナのプールの中からかめ吉が彼女に手を振った。
クスッと笑い、彼女も手を振り返す。
「お言葉に甘えて、もう少しだけいさせて下さい…」
「じゃ僕は失礼するから、気をつけてお帰り。おやすみ・・・・」

懐中電灯を持っているが、つける事も忘れて森滝は館内を歩いていた。
薄暗い方が何かを想うときには向いていると思う。
水族館という仕事を考えるとき、しごとの質とか、水族館自体の役割とかを考えることが多い。
でも今は考えるではなく、ただただ『不思議だなぁ』と思う。
喜怒哀楽のどこにも属さない感情が頭の中に充満しているようであった。
『生き物が生きていけるのは、好きなことがあるからだ』と森滝は思っている。
以前『AI』っという映画があったけど、あれはロボットが人間の心を持てるかという話では無い。
人間という生き物は、ロボットだろうがなんだろうが、愛してしまえる生き物だって話だ。
人間だろうが、他の生き物だろうが、愛する対象に向けられる視線に勝てる物など何もない。
思えばこの職業につきたいと思ったのは、子供の頃に動物園や水族館で飼育員が生き物に関わっているときの表情を見たからだった。
人間以外の生き物にあんなに一生懸命になれる人間を羨ましいと思ったから。
そう、たぶんそうだったような気がする。
・・・その夜、森滝は何がなんだかわからない気合いの入った夢を見ていたような気がする。
とりあえず頭の中は、『だから、何が何を好きでもいいじゃないか』というキーワードだけがずっとひしめき合っていたようだ。


 宿直明け、浅野部長のデスクに差し入れの饅頭があった事を思い出した森滝は、純粋に昨夜の報告をしに行った。
「饅頭食べる?」
「はい」もちろんです♪
この飼育の部屋には、入ってすぐ簡単な接客用のテーブルが置いてある。
雑多な部屋はそれがあるだけで結構手狭なのだが、個々のデスクには必要とそうでもないものが渾然一体となって積み上がっているため、ある意味無くてはならないスペースなのである。
「すみません、部長の好物なのに♪」
「入れたての茶を両手に持ってあらわれたら、誰だってそう言う…」
浅野部長が虎の子の饅頭をチョッと惜しそうに眺める前で、森滝は揚々と饅頭を食べながら話し出した。
「昨夜、初代かめ吉がきていました」
「ふ〜ん、元気にしてた?」
すごくあたりまえの会話のようだが、絶対普通ではあり得ない会話である。
「はい」
「よかった…」このなんとも抑揚のない短い言葉に、本当によかったと感じさせる響きがこの人にはある。
この人にはあまり多くを語る必要は無いと思われた。
そんな少しばかり桁外れの大きさを感じさせるのが浅野部長である。
「…で、もう一ヶもらっていいですか?」
「イヤ」

彼女(初代かめ吉)は水族館でじゅんいちの遊び友達として過ごした。
今はセレナとかめ吉が話題になっているが、元祖はじゅんいちとかめ吉なのである。
大きくなりすぎたりケガをしたりで歴代達は海に帰り、とにかく今のかめ吉で3代目になる。
みんなジュゴンたちの良い友達だった。
別に亀がジュゴンを好きになったって不思議でもなんでもない。
現に僕だって、こんなに人間以外の生き物が好きなのだから。
セレナとかめ吉を離し、セレナがエサを食べてくれなかったとき、実はかめ吉もエサを食べていなかったのかもしれない。
セレナばかりを見てあまりかめ吉にまで気を回してやれなかったことを申し訳なく思った。
じゅんいちとセレナの同居のとき、かめ吉がセレナにくっついて離れないのも、もしかしたらこういう事なのか?と不安になってきた、なにせ今のかめ吉はオスなのだから。
でも、ふとあることを思い出し、チョッと希望の光が心に湧いた。
昨夜、あんな美人のカメを見たんだから、もしかするとやっぱりカメじゃないと…とか今のかめ吉が思ったかもしれない。
ほんと、あんな美人のカメってなかなか居ないからな・・・。
ん?カメが美人かどうかなんて僕も誰かに似てきたかも、と森滝は心の中で苦笑した。
無論、誰かとは浅野のことである。
浅野部長はセレナを「セレナは可愛いが美人じゃないからな〜♪」と自慢の娘を謙遜ような言いかたをする。
ジュゴンが美人かそうではないかなんて、人間はあまり考えない。
通称A部長、浅野四郎とはそう言う人物である。


水族館内の話しは何故か外部に漏れない。
但し、水族館内の話は水族館内にはダダ漏れである。
「ええ〜っ!じゃ、初代かめ吉って女の子なんですか?!」
「そうだよ、知らなかった?」
森滝がショップの女の子に呼び止められ、根掘り葉掘り聞かれていた。
「知りませんよ〜。じゃあ今は?」
「オス」
「よかった〜」
自分のイメージにピッタリ合ったので安心したようだ。
「でも、森滝さんひどいですよ、泣きじゃくってる女の子を一人で置いてくるなんて」
不満そうな言葉に森滝は困ったように頭をかいた。
「あのね、カメってズ−ッと泣いてる生き物なんだよ」
「えっ?…確かにカメが卵を産みながら泣いてるビデオとか見たことがありますけど…」
「う〜ん、アレって別に産みの苦しみで泣いてる訳じゃなくて、カメは体内に取り込んだ塩分を調節したりするため涙って形で体外排泄しているわけで…。ようするに海で普通に泳いでるときも水の中だからわからないだけで、泣きっぱなしなの」
「そんな…!」
カメは産みの苦しみに耐え、泣きながら産卵する・・・・(人間の妄想)。
先日『トリビアの泉』でイッカクの角は前歯が一本のびたものだと知ったときに続き、またしてもロマンがこっぱ微塵であった。
「…し、しかし問題ですよね」
立ち直ったらしい。
「えっ、何が?」
「なにがって、名前ですよ!よく考えたら女性に『かめ吉』は無いでしょう。ネーミングセンスひどすぎます」
「そうかな?」確かに安直ではある。でも、かめ子はイヤだろう?かめ美もちょっとな…。
「そうかなって、そうですよ〜いったい誰がつけたんですか、そんな名前」
「A部長」
「・・・・・・えっ?!」
超引き潮・・・っていうか、津波直前。
「だって、これなんかまだましな方だよ」
「ま、ましなほうって?」
「だって、A部長がオタリアのショーしてた頃、メスの名前は、『ポン吉』と『チビ』だったし…」
固まった・・・・。
「くわえて言うならアフリカオットセイのメスは『キン太』だったからね」
「・・・!!」フィニ〜シュ!
その後しばらく、A部長に新しい商品の名前とか、新企画のネーミングの相談がパッタリと来なくなったのは言うまでもない。

さて、人であれ他の生き物であれ、女性の流す涙には、男はどうしても勝てない成分が含まれているらしい。
あのとき彼女が本当に泣いていたのかどうかも、本人じゃないかぎり誰にもわからないことではある。
でも、森滝には一つだけ確信があった。
彼女が本当に泣くときは、きっと海の中で泣くにちがいない、と。
木を隠すなら森の中。
どんな野生動物も、けして他の生き物に弱みは見せないものなのだから。